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秀吉の死!

今日の 破・常識!


秀吉は 自然死だった!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 59


信長の真実の野望(秀吉編)! 22


豊臣秀吉は 自分の死期が近づいているのを感じていたのです。

1598年 秀吉は この世を去りました。

死因については 現在の資料では 不明だそうですけど・・・

気になったんで さくやさんに聞いてみると、

寿命をまっとうし 身体の不調により突然倒れ 

一週間もせずに 息を引き取ったそうです。


最近 資料に不明な点があると 

誰かに暗殺されたんじゃないのか?・・

みたいに勘ぐる癖がついちゃったみたいなんですけど(笑)

秀吉に関しては 事件的なことはありませんでしたぁ~~(汗)


秀吉は 亡くなる半年前に 

京都の醍醐寺において、秀頼 北政所(ねね) 淀殿ら

近親の者をはじめ 諸大名から その配下の者など約1300名を従え

盛大に花見の宴を催しました(醍醐の花見)


その花見の席で 秀吉から盃を受ける順で 

ちょっとしたエピソードがありました。

当然 正室の北政所(ねね)が 

最初に盃を受けるところなんですが、

ここで なんと 淀殿が一番先に受ける権利が私にはある!・・

と宣言したのです。


これには みんなが驚いた!


淀殿は、 たしかに北の政所は正室かもしれない・・

でも、世継ぎの母である私のほうが 

今では 北政所より立場的には上なのだから

最初に盃を受けるのは 当然私である・・と主張したのです。

世継ぎの母として 権力を持っている・・日ごろから 勘違いをしていた

淀殿にとって 当たり前のことを主張したまでだったのですが・・


これは さすがの家臣たちにも 受け入れられない行動だったのです。


順列を大切にするその頃の風習において あまりに礼儀をわきまえない

淀殿のふるまいに 家臣たちも あきれて ドンびきました。


そして 世継ぎになる秀頼の後ろに このような淀殿が付いている・・

ということに 秀吉の亡き後に対して 一抹の不安を感じさせたのです。


ここで 北政所(ねね)は あっさり 身を引き 

「どうぞ お先に・・」という態度を貫きました。


この二人の間に入って 当事者である秀吉が この出来事に対して

とっさに どのような行動を起こすか・・じっと見ていました。


さすがです! 秀吉は この時 淀殿に向かって

「それは 違う! 北政所が先だ! どんなに後継ぎの母であろうと

北政所が正室であり 順としては淀より先だということを 金輪際

忘れてはならない!」と 諭したのです。


この小さな出来事が 後々に響いてくるのです。

この後 秀吉が亡くなり その後継者を決める段になって、

家臣たちの不評を買った淀殿の味方につく人が減り 

家康方に流れたのです。


秀吉の亡き後 正式に世継ぎを決める段になって 

この出来事が大きく響き

秀頼・・というよりも 淀殿に従いたくない・・

という声が大きくなってきました。

それを聞いて 信長との約束を反故にした秀吉、

血筋による家督相続を 面白くなく思っていた家康は 

北政所の支持を得て 秀頼の後継を認めない・・

という態度に出たのです。

それが 関ヶ原の戦いへと 流れていくことになるのです。


・・・ということで 次回からは 

信長の真実の野望(家康編)!に入ります。




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秀吉の禁教令!

今日の 破・常識!


秀吉は 信長よりも激しい性格!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 58


信長の真実の野望(秀吉編)! 20


1593年 側室の淀殿が秀頼を産むと 秀次との対立が深刻となり

秀次の「殺生関白」と呼ばれたほどの乱行を理由として 

高野山へ追放、のちに 謀反の容疑で切腹を命じられた・・・

とされる秀次事件  (Wikipedia より)


秀吉が 鶴松が病死したことで 後継者に指名した秀次。

そして 淀殿が秀頼を産んだことにより 

再び起こった秀次との後継者問題。

すべては 秀吉がわが子に後を継がせたい・・

と思ったことにより 起こったことなのです。


が、すべては 淀殿の策略だったのです。

秀吉の実子として 鶴松を産んだことで 

その母として権力を手に出来ると思った淀殿だったのですが 

鶴松が病死したことにより 秀次が後継者になってしまった。

面白くない淀殿は 再び秀吉の実子(?)秀頼を産んだ・・・

そして 秀次の存在が邪魔になったのです。


そこで 淀殿は 秀吉が嫌っていて 

そのうちに排除されることになるであろう

キリシタンの宣教師たちを 密かに秀次に紹介したのです。

その時 秀次は秀吉のキリシタンに対する思いを知らなかった。

実際 秀次は 秀吉のことをとても慕っていて 

謀反などこれっぽっちも考えてないし

とても 性格のいい人物だったらしいですよ。

だから 淀殿の策略に引っかかって 

キリシタンの宣教師と仲良くしました。

そのことを 淀殿が 秀吉に箴言したのです。

「秀次は キリシタンと組んで 秀吉に謀反を企ててるみたいで」

・・・ってね。

秀吉は 淀殿には弱かったから その箴言を受け入れ調べてみると

秀次が キリシタンと交流を持っている事実を知り 激怒したそうです。

だから 秀次に切腹を命じた・・・これが 真実です。

完全に 淀殿の策略にはまったということです。

また 資料には 補佐役 妻子 側室たち 

39人がむごい処刑をされたことに

なってますが そんなことはやっていないそうですよ。


キリシタンに関する事件としては・・・

1596年に起こった サン=フェリペ号事件と 

1597年の26聖人処刑 があるのですが・・・


土佐国にスペイン戦が漂着 秀吉の唯一のキリスト教徒への

直接的迫害(日本26聖人の殉教)のきっかけとなったとされる。

漂着した船員たちを 町内に幽閉し 所持品をすべて没収 

航海日誌などの書類をすべて破棄した。

そのことに対し 秀吉に直接抗議しようとした船員が 

都に行ったのだが 交渉の仲介を頼もうとしていた

フランシスコ会など スペイン系の宣教師たちが

捉えられていて、その後 処刑されることになった・・・

(Wikipedia より)


とあるのですが・・これも あっち側の記録ですね。

土佐国の人々は スペイン船が漂着したとき 

人間として礼を尽くし 客人として助けてあげたのです。

しかし 船員たちは ペルー、メキシコ、フィリピンを

武力制圧してきた経験から

日本も同じように自分たちの植民地となり 

国民は奴隷になる運命だと勘違いしていたのです。

だから 助けてくれた土佐の人々に対しても 無礼な態度をとり

荷物を触っただけで 腕を切ったりしたそうです。

元々 信長からキリシタンの本当の目的は 

日本を侵略し植民地にすることだと聞いていたので、

このスペイン人たちの態度を聞いた秀吉は 

危機感を持ったそうです。

今までは 信長の言うように

いきなりキリシタンの宣教師を排除するつもりはなく

少しづつ関係を切っていこうと思っていたのですが、

この事件により そんな悠長なことをしていたら 

ペルー、メキシコ フィリピン

と同じように 日本も武力で制圧されてしまうと考えました。

秀吉は 激怒したのです。

だから すぐに禁教令をだし

都で宣教活動をしていたキリシタンの宣教師を捕え 

処刑することにしたのです。

これは キリシタンたちの本拠である

レプティリアン系の国々に対しての

秀吉の強い意思表示だったのです!


これまでの秀吉を見ていると 

信長より 激しさを感じますねぇ~~~。



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豊臣 平和令!

今日の 破・常識!


惣無事令(そうぶじれい)とは何?


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 57


信長の真実の野望(秀吉編)! 19



惣無事令って、今まで読んだ資料の中で 

時々 目にはしてたんですけど・・・

何のことか よくわからず 読み方もわからなったんで(汗)

スルーしてましたぁ~~(笑)


でも 今日は なぜか妙に引っかかったんで 

思い切って調べてみると・・・


豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令

歴史学では 刀狩令や海上賊禁止令、喧嘩停止令など

私闘を抑制する 一連の法令と併せて 

豊臣平和令と呼ぶこともある

大名間の領土紛争などは すべて 

豊臣政権がその最高処理機関として 処理に当たり 

これに違反する大名には厳しい処分を下すことを宣言している。

            (Wikipedia より)


秀吉は 本気で平和な国づくりを目指していたのですよ。

なんか 信長のシナリオ通り動かなかった人物みたいに 

私は書いてきました 秀吉の存在 功績も認めているんです。

豊臣平和令の基本は やはり 信長が作っていたんですけど、

それを 受け継ぎ 全国的なものにしたのは 秀吉なのですから。

惣無事令を全国の諸大名に認めさせたことで 

天下統一をなしとげることが出来たのです。

あくまでも 天皇の命令によって 私闘禁止を指令する立場として

おこなったみたいですけどね。

朝廷との関係にも 気を使っていることがわかります。


それと もう一つ気になるのは 

文禄 慶長の役!

豊臣秀吉が 主導する遠征軍と 明 および 李氏朝鮮 の軍との間で

交渉を交えながら 朝鮮半島を舞台にしての戦い。

明の征服 と 朝鮮 の服属 を目指して・・・

なんて書いてあるんだけど・・・

この大陸関係の資料を読んでも よくわからないんですよ。

秀吉がなぜ この戦いをはじめたのか?

さくやさんに聞いてみました・・


琉球が 李氏朝鮮や 明から 侵略されそうになったので 

秀吉に助けを求めてきたのが 始まりだそうです。

琉球民族は もともと 縄文の波動を受け継いだ民族だったし

秀吉も 縄文の波動を受け継いだサンカだったので

お互い 通じるところがあり 琉球の人々を助けるために 

秀吉は 大陸に向けて動いたのです。


え~~、そんなぁ~~・・ですよね。

こんな情報は どこにもありゃしない!

今まで 教科書 または ネットで調べる 日本の資料の大部分は

日本人が残した記録ではなく 大陸の国が 

大陸の国の目線で書いたものが

ほとんどなんです。

それを読んでも 決して真実は書かれていない!

自分たちの都合のいいように ねつ造しているというわけです。

歴史的な資料を調べるときは どちら側の立場で書かれたものか

あなたも注意してくださいね。


・・というわけで 秀吉は 本気で平和な国づくりを進めていたのです!




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千利休はスパイだった!

今日の 破・常識!


秀吉がミスったのは 後継問題だけ!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 56


信長の真実の野望(秀吉編)! 18


52歳で はじめて自分の子供をわが手の抱いたときに、

秀吉は 揺らいじゃったんですねぇ~~。

鶴丸に相続させることを決めてしまった!

この後継問題だけなんです。

信長が考えていた理想の国づくりのためのシナリオから

ズレてしまったのは!

秀吉には 正室の”ねね”がいました。

ねねと秀吉は この時代には珍しい恋愛結婚だったみたいで

ねねは 母親の反対を押し切って 

14歳のときに 浅野家の養女となって

結婚したみたいです。

性格は 淀殿とは 正反対の性格で まわりの人から 慕われ 

愛されていた女性です。


信長とも 個人的に親しかったらしく

秀吉が浮気したときに 信長は 彼女に激励の書状を送っています。

「・・・この前、お会いした時のあなたは さらに美しさが増している。

秀吉が あなたに対して不満を言っているようだが 言語道断である。

あのハゲネズミ(=秀吉)が 

あなたほどの良い女性と結婚できたのは幸せなことだ。

あなたも奥方らしく 堂々として 嫉妬などしないように。

この書状は 秀吉にも見せてやりなさい・・」だって。


そのねねは、秀吉の後継問題には 反対してたんですって!

彼女は 勘のいい女性だったみたいで 

秀吉が信長に託されたことについて

うすうす感じていたのです。


秀吉とねねには 子供はいませんでしたが、

お互い深いところでつながっていました。

しかし 淀殿が秀吉の実子 鶴松を産んで 

後継者としての認知を 要求してきたことに 

ねねは不快感を覚えていました。

彼女は 淀殿の企みを感じ取っていたのです。

秀吉に 後継の認知をやめるよう説得していたのですが、

舞い上がっている秀吉は 聞く耳を持ってなかった。

ねねは 信長に申し訳ない・・と思っていたのです。


秀吉が 淀殿からそそのかされ 鶴松を後継者と決めたことで

人々の思惑が入り混じることになり 

後の 関ヶ原の戦いを引き起こすことになったのです。


その流れに関しては また別の機会にお話ししようと思います。


今日は ひとつ気になったことがあったので 

さくやさんに教えてもらいました。

1591年 後継者に指名していた鶴松が病死し 

甥 秀次を家督相続の養子として岡田城を譲り 

秀吉は太閤と呼ばれるようになった同じ年に

千利休は 突如 秀吉の逆鱗に触れ 

切腹を命じられる事件があったのですが、

この事件の真相が闇に葬られたままになってるみたいですよ~~。

さまざまな説があるんですね。


安価な茶器類を高額で売って

私腹を肥やした疑いをもたれたからだ・・とか、

秀吉と茶道に対する考え方で対立した・・とか、

秀吉の朝鮮出兵を批判した・・とか、

本当のところを さくやさんに聞いてみたら・・・

スパイだったんですって!


けど 説にあるような 家康のスパイじゃないですよ~~

千利休は ナーガ系の朝廷のスパイだったそうです。


秀吉とは 表向き良好な関係を保っていた朝廷でしたが

密かに 秀吉を排除し 元のように政権・権力の中心に返り咲こうと

画策していたのです。

その朝廷に 利休は 秀吉に近づくことにより 

多くの情報を流していたのです。

秀吉は 利休を信頼していました。

だからこそ 自分の率直な気持ちを話したり 

国づくりへの想いを語ったりしていたのです。


この年 秀吉は利休の裏切りに気づいてしまったのです。

だから 秀吉は激怒し 利休に切腹を命じることになります。

ただ そのわけは 他の人々には隠さなければならなかったのです。

理想の国づくりをするためには どうしても朝廷とは

良好な関係を保たなければならなかったのです。





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豊臣秀吉の弱点!

今日の 破・常識!


秀吉には 弱点があるから人間味があるのだが・・・


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 55


信長の真実の野望(秀吉編)! 17


秀吉の弱点とは?

女性に弱いところ、そして 子供への執着!


1589年  秀吉は 側室の淀殿との間に

       鶴松が生まれ 後継者のに指名する


1591年  後継者に指名していた鶴松が病死

       そのため 甥 秀次を家督相続の養子として

       関白職を譲り 秀吉は太閤と呼ばれる


1953年  側室の淀殿が 秀頼を産む

       秀次は 謀反の疑いをかけられ 高野山に追放され

       その後 切腹。


・・というように 秀吉に実子が誕生したことにより 

また その子が病死したために 後継者争いが起こったのです。




側室の淀殿とは・・・

以前は 淀君と呼ばれていたみたいだけど 

最近では 淀殿って呼ぶらしいです。

信長の妹 お市の方と 浅井長政との間に生まれた 

3人姉妹の長女 茶々が この淀殿です。

実は この淀殿が秀吉をそそのかし 

織田信長が目指していた理想の国づくりのシナリオが 

違う方向へ進むことになってしまったのです。


淀殿は すごく勝ち気な性格で 派手さを好み 権力欲の強く

少々ヒステリックなところがあった女性らしいですよ。

秀吉は かなりの女好きで 

側室が300人いたという説があるそうですが・・

まぁ、ちょっと大げさで 実際はそんなにはいなかったそうです(笑)

そんな秀吉なのに 

これまで子供が生まれたことが一度もなかったのです。

それが 年を取ってから淀殿に鶴松が生まれたので・・

秀吉は たいそう 大喜びしました。


でも 実は秀吉は自分の子ではないのではないか・・

という疑いは 持っていたそうですよ。

しかし そんなことはどうでもよかったのかもしれません。

淀殿が 秀吉の子を身ごもった その・・・事実が嬉しかったのです。

淀殿は 一番に秀吉の子を身ごもり その権力をわが子に

継がせるというたくらみを持っていたのです。


ここからです。

信長のシナリオでは 血筋による家督相続は しない・・と

なっていました。

それをしてしまうと ただその家に生まれた・・というだけで

権力を持ってしまう・・

今までの 貴族たちと変わらなくなってくるからです。

そのようなことを許していくと 

生まれたときから 権力を持ってしまうと

この子供たちは 本当に国のことを思い、

領民のことを一番に大切にする心が失われてしまう・・

と危惧したのです。

ですから 信長は、血筋による家督相続ではなく、

能力、適性により 次の時代を担う世継ぎを選ぶことを 

秀吉に約束させていました。

秀吉も 信長の想いを知り それを了承していたのです。


でも、52歳ではじめて自分の子供を わが手に抱いたときに

秀吉は 揺らぎました。

あまりの かわいさに 目がくらんでしまったのです。

そのうえ 淀殿が 毎日のように 秀吉に鶴松の家督相続のことを

せっつくものですから、信長との約束を忘れ 

鶴松に相続させることを 決めてしまいました。


この後 これが原因になり 新たな争いの火種が降ってきたのです。

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