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鎖国・・外国のやり方を逆手に取った家光!

今日の 破・常識!


徳川幕府 基礎固めの時、最初が肝心!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 69


1603年 征夷大将軍につき 幕府を開いた徳川家康は、

わずか2年後の 1605年 将軍職を秀忠に譲り 建前上隠居となり

大御所と呼ばれた。

将軍 秀忠は江戸城に居住し、

駿府城に住む家康との二元政治体制となった。

      (Wikipedia より)


ということなんですけど・・・

別に 家康は院政を敷いたわけじゃないんですよ。

家康は 徳川幕府の基礎を固めるために 隠居して政務をとり

必要な政策、制度を作っていったのです。

客観的に見ることで 

今までとは違った国づくりのための新しいアイディアを

思いつける環境に身を置いたということです。

彼は、自分が生きている間に ある程度の基礎を固め 

平和な世の中が続いていくことを望んでいました。

それには 家康は 自分一代では

間に合わないことがわかっていましたから

すぐに2代将軍秀忠に将軍職を譲り 

そのあとを継ぐ3代将軍も視野に入れ

政務に集中していたのです。


今日は 家康のとった鎖国政策について・・・


国完成まで[編集]

「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、

第3代将軍家光の治世に完成した。

1612年(慶長17年)幕領に禁教令

1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。

1623年(元和9年)イギリス、平戸商館を閉鎖。

1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。

1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、

オランダとの交易が4年間途絶える。

1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。

1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。

         また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。

1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。

1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。

         東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。

1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子

         (日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、

         残りのポルトガル人を長崎出島に移す。

1637年~1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。

1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。

         それに先立ち幕府はポルトガルに代わり

         オランダが必需品を提供できるかを確認している

1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、

         使者61名を処刑。

1641年(寛永18年)オランダ商館を出島に移す。

1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良い

         との徳川家康の朱印状が否定される。

1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。

         明再興を目指す勢力が

日本に支援を求める(日本乞師)が、

         徳川幕府は拒絶を続けた。

1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。

         以後、ポルトガル船の来航が絶える。

1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、

         オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

             (Wikipedia より)



すみません 長い資料になっちゃいましたけど・・・

ま、こんな感じで長い時間をかけ 鎖国を完成させたということです。


では、なぜ これほどまでに鎖国にこだわったのか?

日本国内が どんなに平和な世の中になっても 

外敵(レプティリアン系、ナーガ系)に

やられたら 元も子もありません。

家康は そのことをよく知っていましたし 

だからこそ 信長の考えを継承したのです。

家康は 伊達政宗に頼んで 外国のことを調べたりして 

とても慎重に事を運んで行ったのです。


一気に排除しようとすると、外国諸国を怒らせることになり、

武力では太刀打ちできないと考え、ゆっくりと時間をかけて 

間口を狭めていく戦法をとったのです。


この時代 外国諸国とうまく関係を作れないのか・・

という疑問を持たれる方も

いらっしゃるかと思いますが、それは 無理です。

外国諸国にとって、アジア、アフリカは 

侵略、征服する対象としか見ていませんでしたので、

日本とも 対等の関係を結ぼうなど 鼻っから考えていないことを 

家康は 嫌というほど知っていました。

その家康の想いを受け継ぎ 鎖国を完成させたのが、

秀忠と3代将軍家光なのです。

特に 家光は 諸外国のことを勉強していたそうですよ。

欧米の諸外国の 侵略、征服のやり方を 特に勉強していました。


先ほどの資料の中で 特に気になる事件がひとつ・・

島原の乱に引っかかったので さくやさんに聞いてみたら・・・

島原の乱がおこる前に 家光は 外国の動きを事前に察知していたそうです。

外国がよく使う手で・・宣教師を日本人に殺させることにより、

それを口実に 開国、交流を迫り、

最後には武力で侵略 征服する・・というやり方で 

狙われている情報を 受け取ったのです。


家光は 考えました。

これは このまま手をこまねいてはいられない・・

早急に何か手を打たねば・・!

そこで、島原にいるキリシタンたちを刺激し 

一揆をおこさせるように持っていき、

それを幕府が 鎮圧するとともに キリシタンの思想は危険だから 

今後一切 禁教とする・・という方法を使いました。

本来は このようなやり方は家光にとって 恥じるものでしたが、

背に腹は代えられず、

ある意味 外国諸国が使う手を 逆手に使ったのです。


こうして 家光の機転により アジアの他の国に起きたような 

悲劇は 回避されたのです。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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