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赤穂浪士・・登場人物たちの本当の顔!

今日の 破・常識!


忠臣蔵は 世論を動かすための行動!



テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 80




まず 赤穂浪士について・・・

元禄 14年3月14日(1701年 4月 21日)の

江戸城 松之大廊下で浅野内匠頭長矩が 吉良上野介義央に対して

刃傷に及んだ。

殿中での刃傷に 将軍徳川綱吉は激怒し 浅野内匠頭は 即日切腹、

赤穂浅野家は断絶と決まった。

対して 吉良上野介には 何の咎めもなかった。


家老 大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは

 喧嘩両成敗の武家の定法に反する この幕府の裁定を

 一方的なものであると強い不満を持った。

赤穂城での評定では 幕府に恭順して開城するか、

抗議して籠城か殉死かで紛糾。

内蔵助は 殉死を希望する藩士たちから誓紙をとり 

吉良の処断と赤穂浅野家再興を 幕府に求める義盟を結んだ。

赤穂城は 開城され 

旧藩士たちは浪人となり 江戸や上方の各地へ散った。


元禄15年 7月 内匠頭の弟 浅野長広(大学)の広島浅野宗家への

永預けが決まり 赤穂浅野家再興は 絶望的となった。

大石は 京都円山で会議を開き 吉良への仇討を決定した(円山会議)

大石は 仇討決定に際して 同士の向背を確かめるべく 

義盟への誓紙を いったん返却させた(神文返し)。

すると 参加者120名のうち 高禄の者をはじめ 

半数以上の同士が脱落してしまった。

誓紙の返却を拒んだ者にのみ 仇討の真意を伝えた。

最終的に 同士は47人。


元禄15年 12月 14日 深夜 

旧主浅野内匠頭の仇である 高家 吉良上野介の

屋敷に討ち入り 上野介および家人を殺害。

赤穂浪士とは、もと赤穂藩士 大石倉之助以下47人の武士である。

               (ウィキペディア より)



と、ここまでは 皆さんもよくご存じの忠臣蔵の話ですよねぇ~~

一応 再確認のため載せてみました。

さてさて この話の真実をさくやさんに聞いてみました。


まず 何だか悪役にされている吉良上野介とはどんな人物だったのか?

吉良上野介って、まじめな 人柄のよい 殿様だったそうです。

武士としての品格もあり 自分を律する厳しさを持った人で 

幕府の将軍綱吉をはじめ 周りの大名からも信頼の厚い人物でした。

その彼が なぜ刃傷沙汰に巻き込まれてしまったのか?


浅野内匠頭は 地方の殿様の世継ぎとして 

子供のころから甘やかされて育ち ボンボン的な性格だったのです。

だから 人から厳しく教えてもらうという経験がなく 

自分のやりたい放題で 周りの者は ただ笑って見ているだけでした。

内匠頭は 上野介から接待の作法などを教えてもらっていたのですが、

武士として厳しく自分を律することが 精神的に出来ていない内匠頭は、

上野介から厳しく指導されていたようです。

人から 厳しい言葉を受ける経験のなかった彼は 

それにとてもストレスを 感じました。

そのストレスにより 精神がパニックを起こしてしまい 

場所も立場も考えられなくなり 

江戸城 松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んでしまったのです。

一言でいうと 逆恨み?ってことです。


浅野内匠頭の辞世

「風さそふ 花よりも猶 我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」


この句には 悔しさが込められているそうです。

内匠頭は なぜ 自分が切腹しなければならないのか?

最後まで 理解できなかったのです。

自分をここまで怒らせた 年寄りの吉良が悪い・・・

って 思ってたそうです。

内匠頭が こんな性格になってしまったのは 子供のころから甘やかして

育ててしまった周りの大人たちの責任もあると思いますよ、私は。


将軍綱吉は 波動(エネルギー)を感じる人物でしたので 

それぞれの人の波動(エネルギー)も理解していました。

また 家康が大切に思っていた 

士農工商の武士としての役割を大切にしていました。

だから 自分の感情をコントロールできなかった内匠頭の

一方的な逆恨みでの刃傷であったことはわかっていましたし 

ましてや 殿中で自分の感情を暴力によって

訴えるという武士としてあるまじき行為に 

綱吉はすぐに切腹を促す判断をしたのです。

これは 喧嘩ではなく 一方的な刃傷沙汰として扱いました。

だから両成敗ではないのです。


困ったのは 浅野の家臣たちです。

内匠頭の切腹 お家断絶。

この知らせを聞き 「これは大変なことになったぞ。」

家老の大石内蔵助は 

「あ~~ぁ、やっちゃったぁ~~」って感じだったそうですよ。

大石は 内匠頭の性格をよく知っていましたから 

何となく事件の全貌はわかっていたようです。

しかし 浅野家の断絶により 

若い家臣たちの行く末に不安を感じていました。

なんとか 弟の浅野長広(大学)を擁立しての

お家再興を目指したのですが、絶望的になってしまったので 

後は世論(庶民たちの同情)を動かして 

お家再興を目指すことにしたのです。


浅野内匠頭は とてもいいお殿様だったのに

 吉良上野介という意地悪な年寄りの

せいで切腹させられてしまった。

その意地悪な吉良には 何のお咎めもない・・

そんな 理不尽なことは許せない。

かわいそうなお殿様のために 47人の家臣たちは 

自分たちの命をかけて 吉良を討ち

主君の無念を果たしたのです・・・

みたいなストーリーを作り上げ 

赤穂藩には忠義を尽くす家臣たちがいることを

世間の人々に知ってもらい その後の世論(同情)により 

浅野家の再興がかなうかもしれないと

一縷の望みに託したのでした。



この時代 物語や芝居で 

義民のストーリーが受けていたみたいですから・・・

大石内蔵助も 結構 江戸の遊びに精通していたみたいで、

芝居などをよく見ていたそうです。

その芝居のストーリーから 

忠臣蔵のストーリーを思いついたとのことです。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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コメント

確かに

なるほどねぇ、歴史もいろんな出来事も一つの側面から見ていたのでは、真実が見えてこなくなりますね。
それでなくても人は、感情や人情に流されやすいですから・・・ (ノД`)
プロパガンダで民意を動かすことなんて容易いことなのかもしれないけど、もっと賢くならないといけないと痛感させられました。 orz
今フランスで起こっているデモも、冷静な判断で見ていかなければいけないと思いました。

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