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秀吉の天下統一・・それから!

今日の 破・常識!


信長の意志を継いだ秀吉・・その政策とは?


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 54


信長の真実の野望(秀吉編)! 16


信長の後を継いだ秀吉は 1590年 小田原征伐で 

後北条氏を下すことにより 戦国の世を終わらせたのです。

秀吉は とうとう天下統一を成し遂げました。


信長の理想の国づくりを託された秀吉は それまでにも 

新しい国づくりのための政策を行っていたのです。

秀吉が行った政策は 信長のものを多く踏襲しています。

具体的には 織田政権で限定的に行われていた

検地 や 刀狩、楽市楽座、関所の廃止 といったものを

秀吉は自分のアイディアを加えつつ 全国に広めていったのです。


秀吉も 信長と同じく 戦のない平和な世の中、

皆が仲良く楽しく暮らせる

愛と調和の国づくりを目指していました。

弥生時代から続いてきた ナーガ系の支配者(貴族 武家)による

権力による支配体制や 権力闘争を終わらせたかったのです。


秀吉は 1582年から検地をおこなっていました。

各地を征服することに検地をおこない その土地を確実に把握して

全国統一の基礎としたのです。

全国的な規模で 統一された方法で行われたことにより 

それまでの複雑な土地所有関係を整理し 

これにより荘園制度は完全に崩壊したのです。

ものさし 升 も統一し 度量衡も 統一しました。


そして 1591年 

秀吉は 全国の大名に 石高帳(一国御前帳)の作成を命じ

1592年 関白の秀次が発した 人掃令とともに 

兵農分離を確立させたのです!

※ 人掃令(ひとばらいれい)とは・・・

全国の戸口調査を命じ 一村単位の家数、人数、男女、職業などを

明記した書類を作成して 提出させたもの


1588年には 刀狩令を出して 百姓身分の者の武器を没収して

農村の武装解除を図り 兵農分離を進めていました。

兵農分離を確立させたことにより 

百姓たちは 戦さになっても戦力として

駆り出されることが無くなり 

農作物を作ることに専念することが出来ました。

これは 職業を分離することです。

今までは 荘園の中にいた人々、

農民も 武士も そして 土地も すべて

荘園の領主 個人の所有物として考えられてきました。

ですから 農民であろうと 

荘園の領主のために 戦さに駆り出されたり

出来た作物は 荘園の領主のものとされたりと・・

人々には 何も権利がなかったのです。

しかし 秀吉が行った政策により 

土地も 庶民も そこで作られた作物も

すべて 国のもの(国が管理する)ことになったのです。

ですから 領主たち一部の人間の好き勝手に 庶民を

自分の権力のために使ったりすることが出来なくなりました。

そして 農民には 豊かな国づくりのために 

作物を作ることだけに専念してもらうことにしました。

人々 それぞれの職業を分離し 人々がそれに専念出来ることで、

豊かな みんなが平和でいられる国にしようとしたのです。


もう一つの問題・・

信長から聞かされていた ナーガ系の朝廷との関係、

レプティリアン系のキリシタンの宣教師による

外国からの侵略前の偵察など・・

厳しい諸問題も抱えていました。


朝廷との関係においても 秀吉は信長を見本としています。

弥生時代から 神格化され 

表向きは血統が続いてきたとされる天皇を

強制的に排除することはせず 良好な関係を創ることで

秀吉は 天下統一のために利用することにしたのです。


そして 天下統一後は政治に口出しさせないように、

権力を持てない立場として認識させ 

良好な関係を続けていったのです。


キリシタンに対しても 信長と同じく当初は好意的な関係を保ち

少しずつ関係を切る方向へのタイミングを計っていたのでした。

まず 1587年にバテレン追放令を出しました。

この時は まだ強制的な禁教を伴うものではなく 

意図的に緩やかなものにしておいたのです。


このころ 信長は長野の山奥で ゆったりと暮らしていたのですが、

光秀に秀吉の天下統一や 

新しい国づくりの政策などの情報を聞かされていたので、

とても喜んでいたに違いありません。

「よくやった 猿!」

ナ~~ンて言ってたんじゃないでしょうかねぇ(笑)


しかし ある事件をきっかけに 

   秀吉が・・・

信長のシナリオとは違う方向に向かってしまうことになります!



テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

秀吉と家康の対立!

今日の 破・常識!


秀吉と家康の本気度!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 53


信長の真実の野望(秀吉編)! 15


織田信長が描いた 

理想の国づくりのシナリオを知っていたのは 6人・・・

信長 家康 光秀 秀吉 お濃 お市 

の6人だけだったのです!

信長とお濃は 本能寺の変でその存在を消し 

秀吉に討たれたということで 光秀の存在が消え

秀吉がライバルの柴田勝家を討ったことでお市がこの世から去り

表の戦国時代に残ったのは 秀吉と家康だけになりました。


現在の記録によると 秀吉が信長の後継者となったのち

小牧・長久手の戦いで 

秀吉と家康が争ったことになってるんだけど・・・

この裏に 何か隠されているような感じ~~~(笑)

さくやさんに聞いてみると・・・


これは 秀吉と家康が考えた 

秀吉の天下統一のための新しいシナリオだったので~~す。

超アルレロ~~~!


この二人もさすがですねぇ~~


では、その詳細を・・・


信長が天下統一 あと一歩のところで消えたことにより

全国の戦国大名たちの中にも動揺があったのは確かです。

信長の後継者として 秀吉が台頭してきたことに

認知する大名

反発する大名

信長なら従うつもりだった大名たちの中には 

やはり 秀吉の出自が気になる大名もいたのです。

下級層出身の秀吉へ従うことはできないと・・・

まぁ、エリート武将のプライドが

邪魔したってことですよねぇ~~


これを見ていた秀吉と家康は なるべく無駄な戦いを避け 

皆が秀吉に従い 天下を統一するためには 

どうしたら良いかを考えたのです。


その頃 家康の実力を 他の戦国大名は認めていました。

信長の後を 家康が継ぐなら 自分たちは家康についていくと

思っていた大名がかなりの数いたらしいです。


そこで 秀吉と家康は一計を案じました。

家康が 秀吉と対立し その後 和議をして

家康が秀吉に臣従することにしたのです。

あの家康が従うんだから 秀吉はかなりの人物で 

その秀吉と対立するのは得策ではない・・と、

全国の他の大名たちに思わせようとしたんですねぇ~~。


まぁ、そういうわけで 

小牧・長久手の戦いは 1584年 

秀吉・家康 両軍の全面衝突のないまま

家康は 北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し

秀吉も 越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏など諸勢力に呼びかけ

外交戦を繰り広げていきました。

同年 9月には 両軍は和睦

この戦いにより 秀吉に臣従する大名が増えていったのです。


1586年 最終的に秀吉は 

家康に対し臣従要求を受け入れさせたことを天下に示し 

これにより秀吉の天下統一がなされたのです。


この時 秀吉の実の妹 

朝日姫を正室として家康は迎え入れました。

家康は この時まで正室はいなかったそうですよ。

それはなぜか?

このころの結婚は 政略的な意味合いが強く 正室を持つと

その義理の父の家とのかかわりが強くなり しがらみが多くなり

自由に動けなくなることを危惧したのです。

とにかく 家康は若いころから信長の想いを実現するために

協力することを誓っていたので 

それ以外の関係を作ろうとはしませんでした。

家康にとって 信長との関係は特別なものだったのです。

そして ここにきて秀吉が天下を取るという

信長のシナリオを完成させるために 

あえて秀吉の妹を正室に迎え入れることにより 

秀吉の天下統一を諸大名に表明することにしたのです。




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信長の後継者は!

今日の 破・常識!


筆頭家老 柴田勝家の思い!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 52


信長の真実の野望(秀吉編)! 14


信長の後を誰が継ぐのか?

清州城で 後継問題が話し合われたのですが・・・

信長のシナリオ通りに 光秀を討った秀吉は 

その戦功により実績や発言力が大きくなり 

信長の後継者として名乗りを上げたのです。


しかし 織田家 筆頭家老だった柴田勝家は、納得できなかった。

その後 秀吉と勝家との対立は 日増しに激しくなっていったのでした。


そりゃ そうですよねぇ~~~、

織田家の筆頭家老だったんですから 

信長の後は 当然 自分が継ぐもんだと

勝家は 思っていたんですよ。

自分を飛び越えて秀吉に継がれたんじゃ 立場がないし 

おさまりがつかなかったのです。


記録では 信長の後継者会議(清州会議)の後に 

秀吉の仲介を受けて勝家は信長の妹 

お市の方と結婚しているということになっているみたいですが、

さくやさん情報では それは違って 

それ以前に信長の仲介で勝家とお市の方は

結婚していたということです。


信長の妹 お市の方と結婚しているのだから 信長は自分を後継ぎと

認めてくれていると勘違いしていたみたいですね。

でも 勝家がそう思うのも無理はないかなぁ~~って、

ちょっと思いますよ、私は!

信長の本当の想い(理想の国づくりのためのシナリオ)

を聞かされてないんだし・・・


しかし 信長は 秀吉に後を任せると決めていた!

それは 限られた人間しか知らない信長の本当の想いだったのです。

筆頭家老の柴田勝家さえ まったく知らなかった。

でも お市の方は知っていました。

お市も信長の理想の国づくりのために 

シナリオを聞かされていたのです。

本能寺の変の5年くらい前のことだそうです。

信長が秀吉に 後を任せると決めたころに 

信長はお市と話し合ったみたいです。

理想の国づくりのためにシナリオを話して聞かせた後に

信長はお市に聞いたそうです。

秀吉の側室になるか?

勝家の正妻になるか?

どちらか 好きなほうを選びなさい・・って!

浅井長政の件で お市に辛い思いをさせてしまった信長は 

お市のことを気にかけていました。

だから いずれ天下人になる秀吉のそばにいたほうが 

安心だと思っていたのですが、

秀吉には正妻のねねがいたので 側室にしかなれなかったのです。

他にも理由はありますが、結果 お市が選んだのは勝家だったのです。


で、お市は信長に答えたそうです。

天下人になるかもしれないが 秀吉はあまり好きではないと・・・

秀吉の女好きなところや、

ねねの存在が お市は気に入らなかったそうです。

それに 信長の妹としての誇りがあったみたいですよ。


だから お市は勝家を選びました。

お市の気持ちを知った信長は 

お市と勝家を結婚させたということです。

ただ 信長は 後継問題で 

勝家が秀吉と対立するとは思ってなかった。

結局 秀吉は 対立する勝家を討つことになるのですが、

気になるのはお市のことです。


秀吉は お市に勝家を討たなければならないが、

お市には逃げ道を用意していることを告げたのですが・・・

お市は拒否したのです。

浅井長政の時と同じことは もう繰り返したくなかった。

もうこの世に未練はないと、私は 夫 勝家と一緒に行きます・・

ということだったそうです。



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